ミンタカ峠

  雲雀より  上にやすろう  峠哉  (芭蕉)
  峠の風に吹かれ一休みしていると、遥か下の方から雲雀の囀る声が聞こえてくる麓の村里はさらに下方に霞んでいる。峠はあくまでも高く閑静であった。だから山路に来たら、ふと考えてみたくなら、絵や詩ができ、多くの文学が生まれたのであろう。
  この峠は、奈良県吉野町にある、千メ−トルにも満たない峠である。
(写真はミンタカ峠  米山隊長とアミ−ル・ベイグ)
  ではもっと高い高い峠に、世界の屋根と言われている峰峯にやすらう峠に行ったら何が生まれているのか。その一つの峠に登ってみることにした。一昨年開放された、パミ−ル高原東南端にあるミンタカ峠(4,712m)へ。昭和3,40年頃、カラコルムに遠征するとき、カラチで荷物を無事に受け取ったら、遠征は半ば成功だと言われていた。今は飛行機でイスラマバードへ間単に行けるから、とは言うものの。

8月7日(月)
  成田発14:00ペキン経由イスラマバードーカラチ行PK853便は成田を90分遅れて飛び立った。北京ではさらに待たされた。何時まで経っても飛ばない。その内機内放送で{給油の調子が思わしくなく、満足な給油が出来ず、従って高い山を越えて飛ぶのが困難それで南の方に進路変更手続きを取っており、今しばらくお待ち願いたい}、との趣旨が放送された。偉いことになったもんだ。高い山の無い南の方、と言えば海にでるしか方法はあるまい、とんでもない遠回りである。今日中にはイスラマバードには着くまい。それにしても遅い。何しろ中国当局のお達しで、機内待機していて、蒸し暑いことこの上なし、ただでさえいらいらするのに。さすがのんびりやのパキスターニも怒りだした。タラップの出入り口では、スチュワードをつかまえて侃々諤々、口角泡を飛ばして、まさにつかみ合いすんぜんであった。結局4時間半待たされて飛び立つたが、コースは予定のコースを飛んでいた。どうも中国当局と悶着があったらしい。イスラマバードへ到着したのは、予定の21時05分を越えること6時間、午前3時の到着であった。、ホテルについた時は午前四時をまわっていた。日本時間だと午前8時である。小生勇んで家を出たのが朝の9時、23時間もかかってやっとイスラマバードのホテルにたどり着くことが出来た、難儀なのは昔とあまり変わらないのではないでしょうか。

8月8日(火)晴
朝九時に起きるも寝不足たたって気分不爽快。当初の出発予定を遅らせて、11時出発。途中アダバードの竜翔鵬舞迎賓館にて昼飯、チキンヌードウル、チャーハン、チャウメンをいただく。味はとやかく言ってもしゃーない、まあまあと言ったところ。道中は最近の天候不順でかなり痛んでいた、先が心配である。本日予定していたチラスまでは行けず、同じインダス川の畔にある,ベシャム村のPALACE MIDWAY HOTELに泊まる。チラスもここも暑いのは同じ。インダスの水は冷たいのに、どうしてこんなに暑いのか、そよ吹く風はなま暖かく、室内は40度に近かった。寝不足を取り返そうと懸命に努力したが、寝間着がぐしゃぐしゃになっただけで、二日分の寝不足を溜めて朝を迎えた。

8月9日(水)曇りのち晴
暑いので朝も早くからお目覚め。5時過ぎ出発.カラコルムハイウエイを北上する。チラスを10時半通過、ナンガパルバットがぼんやりと霞んで見へ、頂上は雲の帽子を被っていた。
ギルギット13時50分到着。途中ラカポシもハラモッシュもデイランも見ることが出来なかった。フンザへの途中にあるラカポシ、ビュウポイントからも八合目までの景観であった。フンザ到着17時半。当初計画通りここフンザビューホテルに二日泊まって、体を休めることにする。

8月10日(木)●ー◎
本日休養日
朝方小雨が降ったらしい。夕べは寝不足解消のため、早く寝床についたのだが、丁度寝入りばなに間違い電話が掛かってきて起こされてしまった。お陰で今日も寝不足が残ってしまった。どうも小生眠るのが下手である。目が堅いのは身と同じであるようだ。身体が鈍るとよくない、とかで、ウルタル氷河BCキャンプまで散歩に出る。フンザは三年振りだが、さして変化は無かった。

.8月11日(金)◎ー○
フンザーースストーーアムールダリッジ
フンザ6時半出発、パスー、バツーラと氷河を左手に見ながらKKHを走る。快晴ならバツーラの山々を仰ぎ見ての旅となるところだが、あいにくの薄曇りで一昨日に続いて景色は良くない。やがてイグアナの背中の様にとげとげしい山稜をもった山並みが現れ、スストが近づいた事を知らせてくれた。スストにて車をハイエースからジープに乗り換える。イスラマバードからここまではKKH即ちカラコルムハイウウェーを走ってきた。カラコルムハイウェーはイスラマバードからチャタール高原を越え、インダス川と出会ったところにあるタコット村から始まって、クンジェラブ峠(4,709m)まで全長645キロメートル、1978年に出来上がったそうな。インダス川の渓谷に沿って、その山腹を削って造ったKKH、樹木一本生えていない、岩石むき出しの山肌は、今にも落石がありそうで甚だ物騒である。道路幅は6メートル位はあるだろうが、ガードレールなるものは無い。日本だと、落石の危険あり通行止め、であろう道を延々と走ってきた。そしてジープである。道は益々険悪になる、道路の巾も車いっぱい、デコボコの道。切れ込んだ谷見上げる断崖、落石と墜落の恐怖に晒されての半日が始まった。11時半ススト出発、KKHを10分ほど走ってフンザ川右岸から流れ込んでいるキリック川へと入る。ミスガール村12時20分到着。ここでポーターの手配を済ます。ついでに鶏を一羽仕入れた。これがひねた牡で、途中危険を察知して逃げだし、さんざん追っかけ回す羽目になった。後で食べたら、見かけ通りで我々の歯を煩わせてくれた。ここが定住している最奥の村、後は季節季節で移動する,いわゆる五月村、夏村と言われている不定住村である。車は運が良ければ、軍隊の居るフォートがあるアムールダリッジまで行けるのだが、運悪く小さな崖崩れに会い、アムールダリッジまで一時間と少々歩かされた。いよいよトレッキング開始である。アムールダリッジには昔造られたフォートを利用して軍隊が、少人数駐屯しているらしい。フォートの下の脊柱に、左DILLESON右KILIK、MINATAKAと書かれていた。テントサイトはKILLIK谷へ少し遡上した所にあり、広い河原の畔の草むらで、わりと快適な所である。
(写真 左はキャラバンの朝の風景、下はグルカワジャ・ウルウイン氷河)

8月12日(土)○ー◎
アムールダリッジ(3,220m)7:30ームルクシ(3,600m)13:00
キリック川の川幅は広い。今まで通って来たカラコルムの谷、フーシェ谷にしてもブラルド谷にしても、ましてラキオト谷など険阻そのものであった。それらに比べて、実に広々としていて、流れもゆったりとしていて、長閑な旅が出来る。そのかわりはかがゆかぬ。上高地から横尾まで行くようなものだから、なかなか目的地に到着しない。ムルクシがすぐ先の大きな岩峰の下にある、もう2-30分と思って歩くと、一時間も掛かっていた。周りの山々の大きさに騙されて、錯覚しているらしい。ムルクシのテントサイトも草むらの快適な場所にあった。14時頃から小雨ぱらつきだす。ここのところずっとこの状態が続いている。

8月13日(日)◎ー●
ムルクシ7:35 ー ヤットン、コーズ(3,650m)11:10
川の右岸を行く。相変わらず広い河原を行く、距離は稼げるが高度は上がらない。これで良いと思う。もう富士山の八合目辺りまで登ったことになるのだから、高度順応に勤しむ頃合いなのである。急がずゆっくりと歩くことが肝要、川の流れもゆっくりと流れている。その川を渡ることになった。川は三筋になって流れていて瀬は浅そうで、先に行くポーターも流れは膝の下である。最初の川幅5mほどの瀬を渡る。靴を履いたまま渡ればなんと言うこともなかったのだが。渡渉後濡れた靴で歩くのが厭で、靴を脱ぎズボンを膝までまくって、さっと水に足を入れた。冷たかった、思わず最初の足を引っ込めた。秋の梓川くらい冷たかった。最初の渡渉は我慢して渡ったのだが、次の本番、川幅10m位の渡渉はそれは大変勇気のいるものでした。何せ隊長と雨サンはポーターの背中にしがみついて渡ったのだから。一歩二歩三歩はよかったが、川の中程で凍痛が足の随まで伝わって来、渡り終わった時はかき氷を足先で食らったように、踵から脳天までその冷たさが凍みて、我を忘れて河原にしゃがみ込んでしまい、暫くはものが言えなかった。帰りはロバかヤクを雇おう、が四人の一致した意見でした。後で判ったことだが、この渡渉はヤットン、コーズへ行くためのもので、ワンステージ飛ばせば渡らずに右岸通しで行けたのであります。テントサイトはそこから暫く歩いた、草原にあった。カルカがあって、この時期は人も住んでおり、羊や山羊も沢山飼われていた。昼頃からわき出した雲が二時頃から雨を呼んだ。小雨がぱらつきだして気温も下がってきた。

8月14日(月)◎
ヤットン、コーズ7:35ーB、C(4,050m)11:20
昨夜の雨はすぐ上で雪になっていた。4,500m位まで山肌を白く染めていた。道はテントサイトを出てまもなく、木橋(カルカの人達が羊を渡らせるために作った粗末なもの)を渡り、再び右岸を歩く。やがてモレーンの様な岩石の堆積した斜面を登る。この斜面は細かい岩屑からなっていて、非常に地盤が悪く、ポーターもロバから荷物を降ろして自分たちが担ぎ、ロバは空身ではい上がっていった。ここを登り切ると、ガラ場が続く先にグルカワジャ、ウルウィン氷河の舌端が見える。B.C.はその少し手前に張ることが出来た。ここから先は氷河上にしか張れず、あまり快適に過ごせるとは思えないので、少し高度が低いがここで我慢することにして、ミンタカ峠への基地とした。午後から登攀可能な山を求めて、池内とハイポーターのファザールカンが偵察に出る。我々の持っている乏しい資料の中に、登れそうな山が写っていたので、その山をメインに4,550mまで登って偵察し、帰ってきてた。上部の雪原からは可能性あるが、そこまでの岩壁壁帯が問題とか、再偵察が必要とかで明日にミンタカ峠行と兼ねて行うことにする。夕方ハイポーターのアリ、モサが追いついてきた。ミスガールから一日でやってきたらしい。彼は今夏ブロードピークに登ってきたばかりの、パリパリノハイポーターである。昨年の甲南センチネル峰へ登攀を導いたのも彼であり、皆で歓迎を込めて再開を喜び合う。

8月15日(火)○
B.C 6:35 ー ミンタカ峠9:45−11:00 ー B.C14:00
入山以来初めての、快晴に限りなく近い天気に巡り会えた。アリ、モサとファザールカンの二人で氷河を詰め、登攀可能な山の偵察に出る。我々も一足遅れてミンタカを目指す。氷河の舌端から右岸のガレ場に取り付き、大谷光瑞が高度障害に悩まされ、恐怖に身を晒しながら下った斜面を登っていった。わずかに生えた草花に心安らげ、のんびりと写真撮影を兼ねながらコルを目指す。コルは高度約4,500mあった。入口の方は巾7-80mくらいで、池塘になっていて、300mほど続いてガレ場に変わる。ここから氷河源頭の山々が手に取るように眺められた。我々がその山容が相似峰から成る鹿島槍ヶ岳に似ていることから、ミンタカ鹿島と呼んで、登攀の可能性があるのではと、狙いを付けていた山もよく眺めることが出来たが。やはり下部の岸壁が、我々の装備と持ち時間では無理ではないか、との判断、後はアリモサの報告待ちとなった。峠はコルから500mほど歩いた所にあった。高度計は4,600mを指していた。地図より100mばかり低いが、パキスタンではよくありがちなことである。2/3と書かれた1mほどの石柱が立っていて、南側にパキスタン、北側に中国と書かれていた。三分の二があるのだから、三分の一もあるだろうと、見渡したら、300mほど先の東側の斜面に同じ様な石柱が立っていた。それが一か三のどちらかだろう。西側には石柱はなくケルンが積んであった。峠は広く何処から何処までを指すのか判断に苦しむくらい広かった。ここでは雲雀の囀りも聞こえてこないし、麓の里村はグルカワジャ、ウルウィンと言う舌を噛みそうな名前の氷河に取って代わられていた。中国領である北側の谷は長大で緩やかにカーブを描いて北東の方へ消えていた。その先にはパミールの山並みが延々と連なっていた。峠には一木も無く、あるのはむき出しの岩肌と瓦礫の堆積のみであった。此処は文学云々に相応しい所ではなさそうだ、やはり歴史的探検記か冒険物語が適しているのでは無かろうか、そう思った次第であります。ここで一時間少々、高度順化を兼ねて休息。すぐ下にある中国の監視所(石を積んだだけのカルカの様な小さな石室)には誰も居ないようだ。居たら何か言って来るだろう。なにせ我々のいる場所は中国領なのだから。もっとも下山後カラクリ湖へ行くためのビザを持参しているから平気平気、と、休息を楽しむ。この日偵察に出たアリモサの報告では、やはり下部の岸壁が最大のネックで上部の雪原もかなりの日にちを要する、今回は止めておきましょうと言うことになった。

8月16日(水)○
B、C 7:05 ー ムルクシ 14:15
下山にかかる。緩やかに登ってきただけに、下山もはかゆかぬ。

8月17日(木)○
ムルクシ 6:45 ー アムールダリッジ9:30アムールダリッジの少し下の吊り橋までジープが迎えに入っていた。来るときの小さな崖崩れは修理されたらしい、やれやれ助かった、と言うところである。10時半スストに着く。これにて前半の計画は無事完遂された。

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